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2010/04/28 (Wed) 硝子戸の中

昨日3時間で仕上げたレポートです。

ところどころ粗はあるし、言ってることが当たり前すぎて泣けてくる(;´д`)

そんな今回の作品は夏目漱石作「硝子戸の中」です(*^ー^)ノ♪
なかなか作家が決まらない…


病気がちでなかなか外に出ることのかなわない作者の夏目漱石。日々世間について疎くなっていくと感じる一方で彼の元には多くの人が訪れていた。
正確には人だけではない。時として動物や過去の思い出がふとした切っ掛けで彼の書斎に現れるのである。
訪問者は漱石に悲しみだったり世界の不条理さ、そして一抹の寂寥感を感じさせて去っていく。
愛犬であり飼っている最中に半分のらと化してしまったヘクトーの死。
自分の半生を漱石に作品として書いてほしいと言いながらいつの間にか自分は生きるべきか死ぬべきかを問うてくる不思議な女。
友人から買った本を返せと言われて金をもらわずに返した思い出。
父が自らの性を名として付けたもののあまり定着しなかった坂。
彼らとある時は書斎、ある時は庭先、はたまたある時は街中や床屋にて出会っていく漱石。彼らに対して漱石は何をし、何をもたらすのだろうか。そして彼らは漱石に何をもたらすのだろうか。


この作品は夏目漱石の自叙伝という位置づけになる。描かれることは漱石が本当に体験した、もしくは本当に聞いた話だろう。しかし描かれることの多くは暗い話が多く、その半分ほどは人の死と関連していると思われる。これは何故か。私は漱石が「死」を恐怖の対象として見ていなかったのではないかと考える。
作中で漱石本人も語っているが彼が病気がちであった。漱石が度々患っていた病気は完全に死を意識するようなものではなかったが「床に伏すと床に上がるのに一カ月かかった。」と「病気はいまだ継続中である。」という記述を見るに病弱な体を憂うことはせずとももどかしく思っていたのは確かなようである。よって漱石にとって死はとても身近なものだったのではないだろうか。そのため彼は自叙伝であるこの作品に彼の近しい友人の一人という扱いで「死」というものを何度も登場させたような気がしてならない。
しかし作中にはこのような記述もある。
「ひとの死ぬのはあたりまえのように見えますが、自分が死ぬという事だけは考えられません。」(作中63P12行目より抜粋)
これに対し作中で漱石は大変納得している。だがこれは至極まっとうなことなのである。漱石は「死」を友人として認識していたというならばその友人は自分にとって安全な存在でなければならない。自分の周りによくいるが、自分を決して襲うことはないと思っていなければ「死」などという未経験の恐怖は受け入れることができないだろう。
故に彼の周りで死が増えても彼は自分の番が来ることを期待も絶望もすることもなく自分よりも健康なことを自慢していた人がどんどん死んでいくこともごく当たり前の事象として受け入れることができたのだ。このことから漱石は「死」を友人とみなしていたであろうことがはっきりと言えるのではないだろうか。
漱石の「死」との奇妙な友人関係。彼は死に直面した時も彼を友人として扱えたのだろうか。それは誰にも分からない。

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